日本のミュージシャン。ムーンライダーズのボーカル、リーダー。東京都立羽田高等学校卒業。 父は俳優の鈴木昭生。弟はミュージシャンの鈴木博文。 当時、新設だった羽田高校を卒業後、浪人して大学受験をするために予備校に通うも3日で辞める。職も探せば無かったわけではないので、何とかなるだろうと思ったという。 1970年に鈴木の母親が勤めていた会社でアルバイトをしていたあがた森魚と出会い本格的な音楽活動を開始。はっぴいえんどのバックミュージシャンなどを経験した後、自らのグループはちみつぱいを結成。 1975年に実弟である鈴木博文らとムーンライダーズを結成した。翌年にアルバム『火の玉ボーイ』を発売。1986年から1991年のムーンライダーズ活動休止期間は、当時夫人であった鈴木さえ子の『緑の法則』のプロデュースなどを手掛けた。 1981年には高橋幸宏とのコンビでビートニクスを結成、断続的に活動し4枚のアルバムを出す。また、鈴木博文とはTHE SUZUKIというユニットでも断続的に活動している。他にBeautiful Songs(矢野顕子、大貫妙子、奥田民生、宮沢和史)としてアルバム、秩父山バンド(KERA、現ケラリーノ・サンドロヴィッチとのユニット)としてシングル、P.K.O.(Panta Keiichi Organizationの略、PANTAとのユニット)としてアルバム、Three Blind Moses(棚谷祐一、小谷和也とのユニット)としてシングルを発表。 ライブのみではロウガンズ(泉谷しげる、どんと、高田渡)、大江戸兄弟(友田真吾)、野宮真貴とのユニットなど多数。 2008年、曽我部恵一のプロデュースによるソロアルバム『ヘイト船長とラヴ航海士』で第50回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。 2013年7月、元カーネーションの矢部浩志らと新たにControversial Spark(コントロバーシャル・スパーク)を結成した。11月にはKERAと結成したNo Lie-Senseのファーストアルバムを発売。 映画音楽も手がけ、2003年公開の北野武監督の『座頭市』では、第36回シッチェス・カタロニア国際映画祭(スペイン)最優秀音楽賞、第27回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞した。漫画雑誌『COMIC CUE』では漫画の原作を担当したこともある(作画:やまだないと)。 CM音楽では、代表曲として素人の出演者がきちんと歌っているのに下手に聞こえるメロディラインが話題を呼んだ「きいてアロエリーナ きいてマルゲリータ」(マンナンライフ)や、宮崎美子が着替えるシーンでブームを起こした「いまのキミはピカピカに光って」(作詞・糸井重里、歌・斉藤哲夫、ミノルタカメラ)などがある。 音楽プロデューサーとしてはPANTA & HAL、杏里、糸井重里、藤真利子、クリス、原田知世、あがた森魚およびヴァージンVS、ハルメンズ、カーネーション、ISSAY、渡辺美奈代、桐島かれん(高橋幸宏と共同)、cali≠gari、高田渡、cero (バンド)のアルバムを手がけている。 他のアーティストへの楽曲提供も多く、坂本龍一、立花ハジメ、宮崎美子、チロリン、伊藤つかさ、安田成美、野田幹子、ザ・ぼんち、宮村優子、吉田拓郎、うどん兄弟他多数。 ゲーム音楽においては、糸井重里がプロデューサーを務めた任天堂発売の『MOTHER』及び続編の『MOTHER2 ギーグの逆襲』の楽曲を田中宏和と連名で手掛けた。前者で使用された「エイトメロディーズ」は音楽教科書に採用されたこともある。ゲーム音楽では『リアルサウンド』も担当。 音楽を作るモチベーションを上げるためには何でもやり、1990年代に入ってからはジャン・コクトーが描いた「ピカソのポートレート」のタトゥーをしている。 部屋が汚いことで有名で、CDや本、新聞が大量に積んである。奥に行くには数回飛ばなければならない。2階に行く階段も滅茶苦茶で、使ってないベッドも洋服が堆積している。親子連れに「おばけ屋敷」と言われたこともあり、帰れないこともあったという(ラジオ「Tokyo FM 「ナイトワープ Eno@Home」 1998年7月25日)。