株式会社カラー代表取締役社長。 一般には『エヴァンゲリオン』の監督としての認知度が高いが、もともとは凄腕のアニメーターでありエフェクト、メカを得意としていた。 山口県立宇部高校在学中、自ら部長を務める美術部にてセルアニメ、スチルアニメや、実写作品の自主制作を始める。 大学浪人中の1979年にアニドウ主宰の自主制作アニメの上映会『PAF5』に参加。 そこで観たグループえびせん制作のペーパーアニメ『セメダインボンドG17号』などのアマチュア制作者の作品に触発され、 地元山口県宇部市で永山竜叶らと共に結成した制作集団グループSHADOにおいて、ペーパーアニメの制作に着手。 グループSHADOにて制作された『みず』、後述の大学入学後に制作された『バス亭にて』、『じょうぶなタイヤ』等の作品は、 1980年開催の『PAF6』等で発表された。 1980年、当時は学科試験の無かった大阪芸術大学に入学すると、そこで後にGAINAXのメンバーとなる山賀博之、赤井孝美と出会う。 翌1981年、永山竜叶からの伝手で、当時関西でSF大会の運営に携わっていた岡田斗司夫、武田康廣らからの依頼を受け、 第20回日本SF大会(通称『DAICON3』)のオープニングアニメーションを山賀、赤井らと共に制作。 作中に登場するパワードスーツの作画で一躍脚光を浴びる。 『DAICON3』終了後、岡田らが2年後のSF大会(『DAICON4』)開催に向けての宣伝とスタッフの育成のため、 自主制作映画の制作集団DAICON FILMを設立すると、山賀、赤井と共にこれに参加。 DAICON FILM制作の自主制作映画『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』では監督を務めた。 1982年、『DAICON3』のOPアニメを観たスタジオぬえの面々の誘われ、 岡田斗司夫と共に上京した際に『超時空要塞マクロス』の制作現場を訪れる。 この際、板野一郎から「原画を描いてみなさい」と言われそのまま参加。(初めての仕事は2話のメカの原画修正) 大阪、鳥取での『帰ってきたウルトラマン』の制作を挟んで、翌1983年に再び上京した後、第27話『愛は流れる』辺りまで作画に携わった。 大阪へ戻った後『マクロス』で培った技術を持って制作された『DAICON4 OPENING ANIMATION』の作画では、 その素人離れしたクオリティで業界内外から注目された。(TVドラマ『電車男』のOPではDAICON4のOPを一部捩っている) この時期、自主制作作業で忙しく、大学には顔を出さずそのまま学費を払わないでいたため放校処分となるが、 その後、就職活動のため上京した際に宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』への参加が決まった。 ベテランやスターアニメーターがこぞって参加した『ナウシカ』の中で素人に近い庵野の採用は大抜擢であった。 宮崎駿との深い関係はここから始まっている。 1984年、『ナウシカ』に続いて参加した『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の制作終了後、 増尾昭一、西島克彦、伊藤浩二と共にスタジオ・グラビトンを設立。 同年末には、劇場用映画『王立宇宙軍』の製作を目的とした株式会社GAINAXの設立に参加し、これらを長年活動の拠点としていた。 アニメーターとしては人物の作画に弱いところがあるが、メカの細かい設定や爆発などのエフェクト描写は突出して優れていた。 特に『王立宇宙軍 オネアミスの翼』で庵野が手掛けたクライマックスパートは、 セルを一コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚というカットもあったと言われている。 これに使われた粗いスパッタリングのような粉塵エフェクト(『たたき』と呼ばれる)は、 後にテンプレート化され、GAINAX作品中で多用されている。 『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』の監督を経て、1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』を監督。 オタクとしてこだわってきたあらゆるものへのオマージュを込めた作品として大ヒットした。 だが広げられる限り広げた大風呂敷を畳むことが出来ず最終2回で実験フィルムのような映像を放送に乗せてしまい、物議をかもすことになる。 そうした異様なエピソードも含めて、現在まで多くのアニメファンが日本のアニメとしてトップに数えるほどの人気が続いている。 貞本義行の紹介で漫画家の安野モヨコと知り合い、2002年に結婚。仲人は宮崎駿が務めた。 後に二人のオタッキーな結婚生活を安野が『監督不行届』という漫画作品として発表している。 また安野モヨコ原作のアニメ『シュガシュガルーン』ではOPコンテを安野と共に手がけている。 アニメオタク、特撮オタク、戦艦マニアとしても知られ、 DAICON FILMでは前述の『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』を自主制作している。 ちなみに平成ライダーシリーズでは『555』と『カブト』がお気に入りらしい。 ガンダムシリーズでは自らもメカニックデザインとして関わった『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に強い愛情を示し、 伝説の同人誌『逆襲のシャア友の会』の編集にも携わった。 ほかにも『逆襲のシャア』に関しては、庵野が新ガンダムのデザインコンペに参加した際に、 安彦良和タッチをそっくりに再現した初代ガンダムのイラストを描いて提出し、それを見た監督の富野由悠季が涙を流して怒った というエピソードが岡田斗司夫によって語られている。 また『機動武闘伝Gガンダム』では初期OPの絵コンテを手伝った。 庵野の同級生であり友人でもある中村彰正が発見した小惑星に『庵野秀明』と名付け、正式名称となったエピソードもある。