日本の男性アニメーション監督、アニメーション演出家。東京都出身。 山田健学(やまだ かつひさ)名義のペンネームがある。 また、KATSUNOSUKE(Katsunosuke)名義で作詞もしている。 高校卒業後、昼間は版下関係のアルバイトをしながら、夜間に東京デザイナー学院ビジュアルデザイン・アニメーション科に通う。当時の東京デザイナー学院でのアニメ科講師は、若き日の富野由悠季であった。富野より映画の基礎理論と実践を教わり、彼の影響を強く受け卒業後アニメ界をめざす。 同専門学校卒業後の1969年、東映動画の下請け会社「朝日フィルム」に入社し、撮影助手として『ゲゲゲの鬼太郎(1作目)』・『もーれつア太郎』・『佐武と市捕物控』・『魔法使いサリー』・『ひみつのアッコちゃん(1作目)』・『魔法のマコちゃん』・『スモーキー・ザ・ベア』(日米合作)などの撮影助手を担当。『佐武と市捕物控』の制作進行を担当した後、『タイガーマスク』・『原始少年リュウ』・『ゲゲゲの鬼太郎(2作目)』で演出助手を務めた。70年代に入り「朝日フィルム」は、十条のスタジオから西武池袋線東長崎駅近くに移転し、広くなったのを機に新たに作画部門を設けた。その新人募集の際に、東京デザイナー学院の後輩である、兼森義則、及川博史らが採用されている。 1972年に窪詔之に誘われる形で「トップクラフト」に入社し演出となる。以後1983年に「トップクラフト」を退社するまで合作作品を中心に活動。合作作品のないときは国内アニメも手がけた。「トップクラフト」退社前の1ヶ月あまりの間、『風の谷のナウシカ』の準備に入っていた宮崎駿と同じフロアで過ごす。この時、会社に残留し『風の谷のナウシカ』の演出助手をするか、岩田弘の誘いで『機甲創世記モスピーダ』に参加するか迷っていたが、宮崎の「演助は演助でしかない」の一言で退社を決意。退社後はフリーとして『機甲創世記モスピーダ』でチーフディレクターを務める。以降、フリーとして活動。 1987年から1992年まで「マッドハウス」で『JUNK BOY』・『妖精王』・『敵は海賊〜猫たちの饗宴〜』などを手がけるが、病気のため長期休養を余儀なくされる。 1999年からトランスアーツの外注として絵コンテを担当。